太陽の下で笑う。

うまいものはうまい。

だれかのための食卓。

人のために作る料理ってのはいいもんだ。

 

 

もともと、何かをつくるということが好きだったので、料理自体は嫌いではなかったのだが、習慣的に料理をするようになったのはここ3年くらいのものだ。

 

大学時代にイタリアンレストラン※ の厨房で働いていたので、基本的な包丁さばきはできる。しかし、東京で一人ぐらしをはじめた環境がスーパーから遠く、かつ平日は毎日終電で帰るような環境だったため、ほとんど料理らしい料理はしていなかったのだ。

 

※イタリアンということで、アルバイトながら白いコック服にコック帽で働いていたのだが、店自体の売上が低迷しつつコンセプトも迷走を続けており、僕が働いて2年目にバンダナ巻きの居酒屋のような制服に変わり、店自体もイタリア居酒屋のような変な店になってしまった。今確認したところ、数年前に「イタリアのナポリから直輸入した窯で焼き上げる本格的ピッツェリア!」に生まれ変わったあげく、あえなく閉店したようだ。南無。

100席以上の比較的大きな店だったので、宴会で使われることは多かったようだ。同じ大学の友人曰く、合コンの定番の店だったそうだ。もちろん僕は使ったことない。

そんな店で、ウォークイン冷蔵庫の中で凍えながらアイスクリームをくりぬき続けたり、毎日20個の玉ねぎを千切りにしたり、30個のトマトを湯向きしてサイコロにしたり、50人分のコース宴会でひたすらに皿洗いしたりと下働きを続けていた。嗚呼素晴らしき労働の日々よ。

 

 

3年半前に目黒のマンションに引っ越して、深夜まで開いてる駅近のスーパーや近所の八百屋、魚屋がある古い商店街など環境にも恵まれていたこともあり、ちょこちょこと自分で作るようになった。

 

基本的には自分のための料理だったのだが、いつしか週末に今の奥さんと食卓を囲むようになり、結婚してからは休日はほとんど自分が作るようにしている。たまに失敗もあるが、料理そのものがいい気晴らしになるので楽しみながら作っている。

人のために食事を作るようになると、味付けについてはもちろん、量や種類、付け合せなんかについても結構気になるものだ。食卓が寂しくないか、物足りなくないかが心配で、日常の食卓でも、ついつい品数を増やしてしまったりする。

僕の奥さんも入籍して一緒に暮らしだしてから料理を始めたのだが、2年たった今でも「これで足りる?」「量多かったかな?」と毎日心配してくれる。僕は普段お酒を飲むこともあり白米を食べないので、余計にそう感じるのかもしれない。

 

思えば、メシを食うってのは生き物が古来からずっと求めてきた根源的な欲求を満たすことだ。そして人のために温かい料理を用意する、用意されたものをありがたくいただくっていうのは、すごく大事なコミュニケーションなんだなと思う。だからこそ、自分が作った料理をおいしそうに食べてくれると何よりも嬉しいし、足りなそうだと心配になってくるのだ。

 

うちの両親は今夫婦だけで田舎で暮らしているのだが、父親のお腹が出ているのを気にしつつ、母は毎日お盆に乗り切れないおかずを出している。おそらく同じ気持ちなののかもしれない。あのおかずを見ている限りは夫婦仲は良好なのだろう(たまに父親からLINEで夕飯画像が送られてくる)

 

僕が料理を作るモチベーションにもなっているのだが、うちの奥さんはご飯をすごくおいしそうに食べる。そして作った料理をとても喜んでくれる。そして元気に健康そうに食べてくれる。

これはノロケでもなんでもなく、ある種の才能だと思う。

素晴らしい。作りがいが最高なのだ。

 

今後、子供ができて大きくなって、もりもりご飯を食べてくれるとさらに最高だろうなと思う。そのためにも料理の腕を磨いていきたい。

 

だれかのための食卓に幸あれ。

 

 

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