太陽の下で笑う。

うまいものはうまい。

デジタルとアナログから考える芸術の役割の話。

二ヶ月くらい前にラジオ(『ライムスター宇多丸、アフターシックスジャンクション』)で聞いた、デジタルとアナログの違いのメモを眺めていて、面白いテーマだったのでもう少し考えてみる。

 

laughunderthesun.hatenablog.com

 

上記記事で僕が取ったメモ。

言葉はデジタル、感情はアナログ
すでにデジタル化されている
活字も文字のデジタル化
50音は明治にできたもの。
活版印刷で使えないので50音で揃えた。
かつ、昔は日本語は繋げて書いてた
印刷のために個々の文字が別れた

 

言葉がデジタルなものというのは新しい発見だった。

 

① 光景を言葉に移し変える時に、どんなに情緒豊かな文章だったとしても、現象⇒言葉に変換した時点で切捨てられるものが出てくる。

 

②「あ、い、う、え、お」という50音がデジタルなもの。意味は通じるものの、イントネーション、発音のクセ、声の高い低いなどが無くなってしまう。

 

このラジオを聴きながら思い出したのだが、昔から言葉や思考というものが不思議だったのだ。

 

1.キャンデー問題

例えば、年配の人が「キャンデー」とか「パーテー」とか言うのは、日本語を習得する段階で「ティー」の発音に触れてこなかったので、「てー」と混同してしまうのではなかろうかと考えている。

※30代の僕が小さいときのご老人がそうだったので、だんだんとそんな老人は減ってきているのかもしれない。

 

小さいときに、大叔母と話していてそう感じたのだが、本人としては僕が発音する「キャンディー」と自分が発音する「キャンデー」の区別がついてなかったのだ。おそらく、多くの日本人が英語のLとRを聞き分けられないように、「ティー」と「テー」の違いを聞き分けられないのだろう。

 

戦前生まれの大叔母にとっては、「ティー」という発音は存在しなかったのだろう。聞き分けられないので、発音を使い分けることができないのだ。

 

最近では幼稚園から英語の授業をやっているという施設も多いようだが、幼少期の段階でいろんな発音を聞き分ける訓練をするというのは、将来的にしゃべり分けるための耳をまず作っておくという意味で正しいのだろう。

 

 

2.言語と非言語の思考問題

昔々の記憶ではあるが、僕が多分小学校低学年くらいの頃、頭の中で言葉を使って物事を考えることができなかった。

例えば、「学校が終わったら皆でサッカーやって、駄菓子屋に寄って帰ろう」みたいな事を言葉で考えることができず、場面のイメージがただ切り替わっていくような感じだったのだ。

 

本や漫画やアニメの登場人物たちは、言葉を使って思考していたのを見て、なぜそんな面倒なことをやってるんだろうと不思議に思った記憶がある。

(そうしないと本や漫画で表現できないのもあるが)

おそらく、その頃の頭の中では、直感が中心となっており、イメージやひらめきだけで思考していたのではと思う。条件反射に近い。

 

ただ、そこから成長するにつれ、言葉を使った論理的な思考法を覚えて、いつの間にか日本語というツールを使って考えることが中心となってしまったみたいだ。便利でもあるが、なんだか残念でもある。

 

もちろん大人になっても、考える時に言葉を使わない人もいるだろうし、ずっと言葉を使って考えてきたという人もいるのかもしれない。ただ自分としては、それがいつの間にか切り替わっていたことが不思議なのだ。おそらく小学校高学年から中学生あたりで切り替わっていた気がする。

 

 

この二つから考えると、人が考えるってのはつまるところそれまでに得たフレームに相当左右されるし、純粋な発想(そんなものがあるのかも疑問だが)ってのは滅多にないんじゃないかと思えてくる。

 

幼少期までに覚えた言語で、発音や発生の基礎的な単位が決まってしまい、それ以外が区別できなくなる。

その基礎を使った言語が思考のフレームとなる、フレーム以外の飛んだ思考をすることが難しくなる。

 

むしろ、人の発想のほとんどは、それまでに知り得た単語や現象などの知識をベースにしての組み合わせに過ぎないのでは?とも思ってしまう。世界中の情報の総量は加速度的に増え続けており、独自で考え出した内容だと思っていても、どこかで得た情報の組み合わせにであることは十分考えられる。

 

人の思考がデジタルなものに相当影響されているのは、ひたすらに抽象的なイメージで全体像を捉えるよりもはるかに便利だからだ。数や固有名詞を与えることで脳のリソースを減らして処理できる総量や処理速度を上げていったのだろう。まさにコンピューターの処理と同じことだ。

 

ただ、何かとの比較やフレームでの理解ではない、純粋で抽象的なイメージでの把握や、思考ができると面白いのかもなと思ったりする。無垢な発想というか、常識を超えた発想というかそんなものだ。

 

 

うろ覚えだが、哲学者カントが言った「物自体」ってのはそんなものだったかも。

すべてのものは人の知覚と認識の中にあり、「物自体」は経験知覚することはできないと。

 

その「物自体」に、あえて逆説的に知覚して表現することで近づこうともがくのが芸術なのかもしれないな。

 

プリミティブなアートはもちろん、美術理論を突き詰めた先にあるピカソキュビズムのようなアプローチも結局は「物自体」を捉えるための方法論の違いなのかもしれない。

 

 

デジタルとアナログの話から哲学と芸術に着地してしまった。

なんじゃこりゃ。