通勤途中にTwitterをぼんやりと眺めていて、フォローしているライターの塩谷舞さんのNoteの文章が流れてきて、久々になるほど!と思ったので記す。
内容としてはおおまかに以下のようなことが書いてある(ぼくの意訳)
・塩谷さんにとって、「書くこと」が心を整える手段として、内省するための手段として大事なことで、表現したいとか仕事したいという欲求以前に、自己慰安として書いてきたところが多い
・もともとは自己慰安とは仕事や生活に関する疲れを癒すためにやることのようだが、最近は自分にとっての慰安を仕事にする人が増えている
・現代の「贅沢」というものは、これまでの過剰な消費とちがって、「感性豊かに生きられるような心の余裕を少し持つ」ということなのではないか
・感性豊かにはたらいていくような新しい生き方や、これまで仕事になっていなかった社会とのかかわり方が今後もっと増えていくのではないか
前半の、自己慰安につながることを仕事にするというのも非常に納得。
昔から、「やりたいことを仕事にする」という言説、就職観が持て囃されては消えていくが、就職や転職に関する仕事をやっているので、「やりたいことを仕事にする」というものの危険性は十分に理解しているつもりだ。そしてやりたいことを仕事に出来る人ってのはかなり限られているのも承知している。ぼくの10数年の社会人経験と見聞きした情報からすると、やりたいことを仕事にするというのは、強い意思と努力がないとなかなか成立しないものなのだ。
ただ、塩谷さんが書いているセラピーの要素を持ったことを仕事にするというのは、似ているようで全く違う良い視点だなと思った。
料理人が毎日の料理の中に平穏と喜びを見出すように、クリーニング屋がFMラジオを聴きながらのアイロンがけに気分のよさを感じるように、煙草屋のおばちゃんが常連の客と間話をしながら楽しそうに接客をするように、仕事の環境や手仕事、人との係わり合いに、なんらかの自然な楽しさや自己肯定感、頭がスッキリしたり暖かい気持ちになったりするものを見出しつつはたらくということは素晴らしいことだ。
手仕事を活かしていくことについては以前もぼんやりと考えており、以下のようなブログを書いた。
laughunderthesun.hatenablog.com
ぼく自身は現在は営業組織のマネジメントが主な仕事であり、日々のルーチンや手仕事とはあまり関係の無い日々を送っている。しかし、手仕事に癒され、ノートにペンを走らせることで頭を整理していくタイプなので、日常生活や仕事の端々にそれらを組み込むことで楽しく働くことができているように思う。自己慰安の手段をそのまま仕事にできれば素晴らしいのだが、なかなかそうもいかない人も多い。自己慰安の手段が何なのかを理解して、生活に組み込むことが大事なのだろう。
また、後半の贅沢の定義についても、なんとなく考えていたことがきっぱり言語化されていて気持ちが良い。消費や浪費が「ぜいたく」では無くなってきているのだ。
その変化については、加齢による物欲の減退や、ある程度役職もついて金銭的にも余裕が出てきたこと、生活に必要なものやアイテムをすっかり揃えてしまったことなど、もともとはぼく個人に起因する変化なのかなと考えていた。しかし、塩谷さんの文章を読むかぎり、社会的な変化もしくは世代的な変化なのかもしれない。
・高度成長を随分昔に終えて、社会全体が豊かになってきたから?
・ここ30年近い低成長の社会の中で、物欲を追い求めるのが価値観として合わなくなっている?
・嗜好が多様化しすぎて、単一の物差しでの贅沢が存在しづらくなったから?
もろもろ理由はあるとは思うが、贅沢ということの変化に同意する人は増えているのだろう。
自分にとっての贅沢とは何なのか。
よく晴れた海辺で過ごす時間であり、静かな喫茶店でノートや本を開く時間であり、手をかけた料理を誰かのために作っている時間であり、奥さんと知らない街をのんびり散歩している時間であり、友人達と過ごす時間がそうかもしれない。
金額の大きさや珍しさから抜けた、心地よい時間を意識して持てることが今の自分にとっての贅沢なのだなと思う。