太陽の下で笑う。

うまいものはうまい。

住むと溜まる。持たざるものは捨てられない。

引き続き家について考えている。

 

人が定住するというのは、いろんなものを蓄積していくということなのではないか。

 

新築の綺麗な家であっても、人が住んでいるとだんだんと生活感が出てくる。いくら清潔にしていたとしても、こまごましたモノが増えてくる。リビングや寝室をシンプルに整えていたとしても、クローゼットの中はどんどんとモノが増えてくる。必要なモノだけでなく、いつか必要となるかもといったほぼ不用品でもどんどんと増えてくる。

 

モノが増えないとしても、部屋には小さな傷や汚れ、それにまつわる記憶などが積み重なっていく。

 

また、住む場所に関係する人間関係も積み重なっていく。行きつけの店や近所に住む友人。通勤経路でよく会う人など、関係性の濃い薄いに限らず、少しずつ蓄積していく。

 

 

定住して、モノや関係性を増やしていくのは人に備わった本能のようなものだと思う。

 

昔々、人類が狩猟採集で生きていた時代はできるだけ身軽なほうが良かった。行動範囲を広げると、単純に獲物と出会う確率が上がる。

しかし、農耕を始めると決まった土地に定住して食物を作るのが仕事になる。農耕を効率的に行うために農具や家畜などの所有物はどんどんと増えていく。食料も備蓄するようになり、「持てる者」が生存上優位になる時代が1万年くらい続いたのだ。本質的にモノに囲まれていると安心するのだろう。

 

また、農耕により人口も爆発的に増加し、地域に根ざした人間関係が生まれたのも大きいだろう。それが部族になり村になり国になっていった。定住が人間関係の基礎となっているのだ。

 

 

引越しをすると、それまでに溜め込んでいた不用品や人間関係をリセットする効果がある。どんなに綺麗に暮らしていたとしても、結構な量の不用品が出てくるものだ。僕も過去数回の引越しを経て、暮らしをリセットさせて生活の質を上げてきた。

引越しにはカタルシスがあり、癖になってしまう人が多いのも頷ける。

 

 

今のところ予定がないが、一軒家を買うという事に対して、若干の不安があるのはここだ。モノが溜め込まれてリセットできなくなりそうなのだ。

 

僕が幼少期に暮らしていた祖父母宅も、母方の祖父母宅も、自分の実家も、僕が大学時代に住んだアパートも、7年間住んだ阿佐ヶ谷のアパートも、いつ使うの?という不用品が静かに静かに蓄積されていっていた。

ちゃんと伝えておくと、別にゴミ屋敷というわけではない。ただ、いつか使うかもしれないと保管されている物品や、お中元や引き出物で貰って開封されないままの品、捨てるタイミングを失って納屋や使わない部屋、家の外に置かれているものがどんどんと蓄積されているのだ。

 

母方の祖父母宅は、祖父が亡くなったタイミングで業者を呼んですべて一掃してもらったらしい。その後人に貸しているそうだ。

 

もちろん、どこかのタイミングで意を決して大掃除や断捨離を進めることは不可能ではない。しかし、それを定期的にやれている家がどの程度あるだろうか。先延ばしにしているうちに老いていき、だんだんと気力体力が無くなってきて、最後は大量のモノを残したまま亡くなってしまい、遺族が処分するのがほとんどなのだろう。

 

また、どんなに綺麗な新築の家だって、3年で生活感にまみれ、10年で多少くたびれてきて、20年でどこかしら痛んでリフォームが必要になってくる。 数千万かけた買い物がそういった形で損なわれていき、かつそこに不用品が溜まっていくとなると、なかなかポジティブになれないのだ。

 

 

2018年に大ヒットとなった映画『万引き家族』を観ていて、貧困家庭のセットのあまりのリアルさに目を見張った。ボロボロの一軒家の中は、モノがゴチャゴチャと積み重ねられて、薄暗い電灯の下で家族が肩を寄せ合って暮らしていた。テレビドラマの主人公が暮らすタワーマンションの清潔でお洒落な暮らしとは間逆の、ものすごく説得力のあるセットだった。

 

それを観ながらなんとなく感じていのだが、「持たざるものは捨てられない」のだ。

 

現在、モノよりコト消費であるとか、シェアリングであるとか、ミニマリストであるとか、メルカリ等を活用したリユースが盛んに言われており、所有せずに豊かに暮らす価値観も一般化してきているが、それは逆説的には豊かだから捨てられるのだ。

 

いつでも買い戻せるという余裕が無いと捨てられない。貧しいほど「安いから」と喜んでモノを買い、溜め込んでしまう。僕もその傾向があるので、綺麗な家がそうなってしまうのが若干恐ろしいのだ。もし心境が変化して一軒家や新築マンションを購入するとなっても、この考えはしっかり持って綺麗な住環境をキープしたい。

 

いろいろと書いたが、現在の家を綺麗に保ってくれているうちの奥さんに感謝である。