太陽の下で笑う。

うまいものはうまい。

大震災から10年。あの時の東京。

東日本大震災から10年。

むかし更新していたブログに、地震直後の状況を書いていたので、久しぶりに読み返してみた。

 

地震が起きた当初はそこまでの大災害になっているとは気付いておらず、情報が入ってこない中で見た新宿アルタ前のオーロラビジョンで東北の被害を知った。その時はじめて日常が足元から崩れていく怖さを目の当たりにしたのだった。

 

日常がいつの間にか非日常にすり替わって戻らなくなってしまうような、あの時の不思議な感覚。

 

今平穏な日々を過ごしていても常に板子一枚下は地獄なのだ。それを忘れないためにも、一部を更新しつつ転記する。

 

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僕が社会人になってもうすぐ3年となるタイミングだった。

 

池袋のヤクザのような風体をしたお客さんとの商談を終えて、同行してもらっていた隣の部署の上司と一緒に駅まで歩きながら、別のお客さんに電話していたところだった。


池袋駅北口すぐの駐車場で携帯電話がつながらなくなった。
発注頂けるかどうかの条件交渉をしていたこともあり、すぐにかけ直すが、まったくつながらない。

 

上司はのんきに空を見上げ、「なんか今日風強いんかなぁー」とつぶやいていた。頭上の電線が大縄跳びのように揺れていたのだ。

 

その時、轟音とともに、地面が激しく揺れた。
細かい縦揺れがきて、電柱がきしみ、その後の横揺れで駐車場の車はゆさゆさと揺れている。近隣のビルは急に柔らかくなったみたいに大きく左右に揺れていた。


大きな揺れは30秒もなかっただろうか、僕と課長は少しでも安全そうな駐車場の中心部へと走った。近隣の建物の中からも人々が悲鳴を上げながら次々と出てくる。

 

縦揺れがおさまっても、地面が波打つようにゆっくりと揺れ続けていた。

 

恐ろしかったのか地面にうずくまっている人はいるが、ほとんどの人は周囲の人と「すごかったねー」と楽しそうに言い合っている。

何かのアトラクションやドッキリのようだった。

 

以前地震があった際に、twitterの情報が何よりも速かったのでさっそくチェックしてみると、皆も「地震なう」「すごかったー」などとつぶやいており、特に被害はないようだ。

 

揺れがおさまって池袋駅まで行ってみると、JR、地下鉄ともに安全確認中で復帰の目途がたたないとのこと。

 

15時前くらいになって、twitterから震源地の情報と、震度7という情報が入ってきた。
そこでの震度7はただの数字であり、そこまでのインパクトを持たなかった。

 

地下構内にいても危険かと思い、駅を一旦出て東口に。タクシーも無理そうなので、渋谷方面のバスに並ぶ。池袋駅前のビックカメラなどは、店員もふくめ全員が建物の前に避難しており、ビルを不安そうに見上げていた。

 

バス停で16時まで待ったが、まったく動く気配はない。目の前の道路も渋滞を始めている。

 

改めて池袋駅構内に行ってみたが、安全確認のためにすべての出入口を閉めるとのこと。大量の人が寒空の下に追い出されていた。

いよいよ帰る手段がなくなってきたため、上司と相談し、とりあえず歩いて会社方面に向かってみることに。

 

この時も、東北をはじめとする各地で大惨事になっていることは知らずに、「17時からのアポイントどうしよう」などと考えていた。まわりの人も、仕方ないながらも、笑いながら歩いていたようだ。

 

twitterで情報を収集すると、何やらお台場で火災が起きたこと(これはのちにデマだったことが判明)や豊洲液状化現象が起きたことなどが流れてきた。

 

会社は赤坂にあるので、とりあえず明治通りを歩いて下っていく。メトロの副都心線の駅のどこかで運転再開したら乗って帰ろう。

バスは運転を再開したらしく、人をぎゅうぎゅうに詰めてなんとか走っていた。

 

上司と二人で新宿あたりまで歩いたが、会社はとりあえず無事らしいとtwitterのダイレクトメールで連絡がきた。会社では地震のあとすぐに近くのホテルの広場に全員避難し、部長や役員で会社の被害状況を確認し、全員解散となったそうだ。

 

僕も歩いて会社に帰ったところでやることもないし、帰る手段もないため、歩いて阿佐ヶ谷の自宅まで帰ることにした。

 

上司は川崎が自宅なので、一旦会社にもどってどうするか考えると。そこで上司と分かれ、青梅街道を歩いてひとりで自宅を目指す。新宿は徒歩の帰宅者でごった返しており、店舗はほとんど閉められていた。

 

 

アルタ前のオーロラビジョンでは、繰り返し地震の情報が放映されており、多くの人が口を開けてそれを眺めていた。

 

いくつかの地域が津波で壊滅状態であり、全国で死者が多数発表されていた。

津波で船が横倒しになっている映像や、コンビナートが爆発する様子、町が津波に飲み込まれている様子などの合間に余震の発生を告げる緊急地震速報が流れていた。

 

ここでようやく被害の状態を把握した。

どうやら、とんでもないことになっているようだ。


あまりの被害にただ呆然と20分ほど眺めていたが、だんだんと夕暮れが近づいてきていため、18時前にその場を後にした。

 

新宿大ガードをくぐり西新宿へと歩く。

前方の西の空は夕焼けで真っ赤に染まり、徒歩で帰宅する大勢の人が
西へと向かう様は、民族大移動のようで異様な光景だった。

 

歩道と車道の一部は人であふれ、車道は大渋滞で歩くよりも遅いようだった。

スーツと革靴で重い営業鞄を持って長時間歩くことは楽ではなかったが、他に手段もないため、黙って歩いていた。

 

まわりの人達も黙々と歩いていた。グループで歩いている人たちはむしろ楽しそうに歩いていたりする。


電話やメールはほとんど使えないながら、webは普通に繋げることができた。

twitter上では、防災知識や安否確認、被害状況の共有、励ましのメッセージなど、非常に前向きな情報が飛び交っていた。

 

「緊急以外は電話を利用しないように!」
献血は交通状態が回復してから行ってください」
「電気が足りないので節電してください」
「避難所等ではお年寄りが不安なので、twitterもいいですが、
なるべく話しかけてあげてください」
阪神大震災の時●●だったので、気をつけてください!」

 

オフィスを解放し、休憩やトイレを利用できるようにした企業。地震の被災者やその家族に対し、保険を適用できるようにした多くの国内生保。温かいお茶を振る舞い、注文しなくとも入店できるようにした飲食店

 

非常に心強い。地震からわずか数時間で皆が自分ができることをやろうとしていた。


20時前に自宅に到着し、当時テレビを持っていなかったのでラジオをつけると、すべての局が放送を緊急災害情報に変えて流していた。

部屋は棚に置いていたものが倒れたり、パソコンが倒れたりしていた程度で、そこまで大きな被害はないようだ。

 

当時付き合っていた女の子が新宿で帰れなくなっているとメールがあったため、急いで着替えてバイクに乗って迎えにいく。

都心から離れる道路は大渋滞だったが、都心に向かう道路は比較的空いていたので15分ほどで到着した。女の子をバイクの後ろに乗せて大渋滞の青梅街道を自宅まで走った。

 

慎重にバイクを運転しながら、世の中がいきなり変わってしまったことや、多数の犠牲者が出ているらしい現状、その中で必死に人のために動こうとしている人たちのことを思ってなんだか体が震えてしまった。

 

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