太陽の下で笑う。

うまいものはうまい。

小さな物語を持つこと。

先日のブログにも書いたが、僕の祖父祖母が全員亡くなり、僕の兄弟に皆子供が生まれて、明確に世代交代が進んでいる。そんな中で、ここ5年くらいずっと考えていることがあり、あまりうまく文章化できるかはわからないが、考えながら書いてみようかと思う。

 


僕が社会人になった頃だったか、どんなシチュエーション、文脈だったかは忘れたのだが、父親がこんなことを話していた。

 

「自分はちゃんと働いて息子3人を育ててひとり立ちさせた。次の世代に遺伝子を繋いだので生物としての役割はちゃんとこなしたんだ」

 

その後に続く言葉が何だったのかは忘れてしまった。「だからこれからは趣味に生きるぞ」だったのか、それとも「だから君たちが次の世代につないでいく番だ」だったのか。ただ、ある種満足気に話していたことは覚えている。当時の僕は、まあそんな考え方もあるよな。という程度で、深い感慨もなくただ聞いていたように思う。ただ、なぜか15年近くたった今でもその言葉は覚えている。

 

たしかに、生物としては遺伝子を次の世代につないでいくことが非常に重要なことだろう。LGBTQの人たちや宗教上の理由でそうではない人たちもたくさんいるし、子供が欲しくてもできない人だっているので、人間としてそれが一番大事だとは言わない。ただ、生物がここまで進化してきたのは遺伝子を次の代に繋ぐという繰り返しの賜物なのは事実だ。

 

その話にちょっと関連するのだが、ここ数年、進化心理学行動経済学、人類や生物の進化の歴史に関する本を読み漁っており、ジャンルも異なるいろんな本の知識の中から、なんとなくではあるが、以下のような考えに至っている。

 

大きな物語がなくなった現代だからこそ、それぞれが小さな物語を持って生きていくことが大事なのではないか」

 

ここでいう物語とは、フィクションとしての物語ではなく、自分が生きていく上での筋道、ストーリーのようなものだ。その考えに至ったきっかけが、以前も紹介したエリック・バーカー氏の『残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する』である。

 

laughunderthesun.hatenablog.com

 

本文より以下引用する

「子供の精神的な幸福度を最も正確に予測するものは何か?それは素晴らしい学校でも、抱擁(ハグ)でも、ピクサー映画でもない。エモリー大学の研究者は、子供が家族史を知っているかどうかが、最も有効な指標になることを発見した。ストーリーの拠り所になるからだ」 

ー『残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する』

 

この本で紹介された研究では家族史を取り上げているが、個人の人生のストーリーでも良いし、自分が物語の主人公としてこんな風に生きていくというイメージでも良いし、自分が仕事に感じている使命感ややる理由でも良いと思う。なんらかのストーリーを心の拠り所とすることが大事なんだと思う。

 

人類の長い歴史を考えていった際に、これまでは、人生のストーリーは基本的には与えられたもので、自分では大きく変えられないものだったはずだ。


それは民族の歴史や血であり、宗教であり、身分であり、稼業(家業)であったはずだ。

生まれ育った部族や家族の宗教を自然なものとしてとらえて信仰し続け、農民の子供は農民へ、石工の子供は同じく石工となり、遊牧民の子供は遊牧民となるのがほとんどだったはずだ。基本的には数十人から数百人程度の狭いコミュニティの中で育ち交流し、そのコミュニティから大きく逸脱することなく次の世代に命をつないで死んでいったはずである。これは何も中世のころの話ではなく、田舎であれば僕らの祖父祖母の世代まではそういった世界で生きてきたはずである。(現に僕の亡くなった祖父は小さいころに跡取りのいなかった分家に養子に出され、養子先の家業である小さな田畑を守るためにずいぶんと働いたらしい。そこにどのような思いがあったのかは今となっては聞けないが、田舎では「家」が決めたことは絶対だったはずだ)

 

それが、この数十年でいきなり、個人個人が自分でストーリーを選び取っていける世界に変わった。数千年、数百年続いてきたものが一気にシフトしているのだ。現に日本国憲法にも、居住、移転及び職業選択の自由が認められている。まだまだ古いしがらみに苦しんでいる人はいるとは思うし、世界中ではまだそうでないところも多いとは思うが、現代の資本主義社会の建前上は、皆が自由に自分の人生を自分らしく生きてくださいというものだろう。

 

ただ、その結果迷っている人が非常に多いように感じる。幅広い選択肢が与えられたとして、自由に選んで、それを納得して正解にしていくのは本当に難しい。

 

 

インド出身でコロンビア大学教授の社会心理学者、シーナアイエンガー氏の『選択の科学』という名著がある。身分制度が根強く残り、親が決めたお見合い結婚が多いインドにおいて、お見合い結婚と自由恋愛でそれぞれの夫婦間の恋愛感情の強さがどう違うのか、結婚当初と10年目を比較したという実験が紹介されている。その結果はこうだったそうだ。

 

恋愛結婚の夫婦: 結婚当初は70点⇒結婚10年目は40点
お見合い結婚の夫婦: 結婚当初は58点⇒結婚10年目は68点

 

与えられた選択の場合は、そういうものとして受け入れてお互いに歩み寄っていくため、次第に満足度が上がっていくことが多い(そうしないとやってられないということもあるだろう)ようだ。

自由に選択した場合は、選んだ当初がピークでその後下がっていくことがほとんどのようだ。そう考えると、結婚であれ職業であれ、あらかじめ決められているというのはそこまで悪いことでもないのかもしれない。

(もちろん、被差別的な身分や、変えたくても変えられないことは減らしていくべきである)

 

 

同じような難しさが、個人の生き方やキャリアについても言える。ぼくは就職関連の仕事をやっており、就活生のサポートで面談することも多いのだが、正直、今の20歳前後の若者に対して、主体的に進路や就職先を選べというのはけっこう難易度が高いように思う。

 

大学への進学率は年々高まっており、せっかく大学に行ったんだからと、皆が大手有名企業やイメージの良い業界、職種を志望して就職活動を開始する。面接では「将来の目標は」「君はどうなりたいの」などと聞かれるが、なかなかまともに答えられる学生はおらず、面接用に準備した答えを話す。その結果、ほとんどの学生がそれで失敗する。そしてよくわからないまま当初志望していなかった業界や企業に流れ着いて就職先を決めるか、失敗して留年するか卒業していく。

 

なかなか根深い問題である。そこに自分なりのストーリーは作りづらい。

 

僕が就活生と面談する場合には、個人個人の強みや価値観に合わせて、そのストーリーを一緒に作り上げる手伝いができるといいなと思ってやっている。

 

また、無事に就職できたとして、しばらく働いている中で、これでいいのか?という思いはどこかでやってくる。

若い頃は青臭い夢や希望がガソリンとなり、何者かになれるかもしれないと突っ走ることも出来るだろう。ただ、大半の人は段々と可能性が狭まっていき、いつの間にか何者にもなれなかった中途半端な自分に気付いたりもする。そこでまた自己啓発に走ったりする人もいるだろうし、諦観して静かに暮らしていく人もいるだろう。

 

そこで、各自の小さな物語を改めて作っていく必要があると思うのだ。

 

小さな物語の作り方は人それぞれだと思うが、いくつかパターンがありそうだ。

 

一つは、家族を作り、子供を育て、家族史を次の世代に繋いでいくこと。

僕も今その真っ只中にあるのだが、結婚して子供ができてというのは、単調だった世界が一気に鮮やかに変化していくようだ。大変で面倒ではあるが非常に充実した体験である。子供に過度に期待したり、自分の分身としてプレッシャーを与えるのは良くないが、次の世代に期待してちゃんと育てていくということは素晴らしいことだ。

 

もう一つは、ある程度経験してきた仕事や趣味にもう一度意味をつけていくこと。

年齢を重ねていくと、どんどんと目の前の可能性は狭まっていくが、その分経験と知識、人とのつながりが増えていくため、特定の仕事や趣味の領域ではやれることが増えてきたり、難易度の高いことがやれるようになってくる。

 

若いころに描いていたような輝かしい存在になれなくてよい。というかなれない人が大多数なのだ。ある種の開き直りかもしれないが、腹を決めて、自分がやれる範囲で自分の持ち場でやっていく。そしてちゃんと税金をおさめておまんまを食べて、ほんの少し世の中のためになることをやればよい。それが自分のストーリーなのだと納得できれば良い。

 

人生のギアを切り替えるのだ。

 

バラ色とは言えない世界の中で、何者にもなれなかった自分の物語を強固にしていくこと。バトンのもらい方と渡し方。一族や家族の歴史を大事にして次の世代に渡していくこと。なんとなくだが、それが大事なんじゃないか。

そんなことをここ数年ずっと考えている。