先週の日曜日のはなし。
ライフスタイルが変化していく中で、この雑文を書く時間が捻出できないでいる。もう月曜日だというのに先週の日曜日のはなしを書いている。だって下書きに写真だけが残っていたのだから。幸いにもこの雑文の中での時間経過がどうあろうと、後で読み返す自分にとってはなんの問題もない。
ただ、この自粛生活で、ひとりでカフェに寄ってのんびりとノートを開く一人の時間が無くなったのは多少残念である。自宅でもできないことはないが、隣の部屋で奥さんが娘と遊んでいる中ではなんとなく意識してしまっていけない。4年くらい前から続けている習慣が止まってしまった。奥さんと娘が寝静まった時間や、散歩にいっている時間でやるようにしようか。
さて、日曜日のはなし。ひるめし蕎麦。
なんとなく、webでこの記事を読んでから 、家で蕎麦を食う時はスーパーでこれを買い置きして食っている。
特に蕎麦のかおりや味にうるさい人でもなく、食べる際も市販のめんつゆを薄めて食べるので全くこだわりもないのだが、これはなんとなく美味い気がする。
昼飯を食ったら娘と遊ぼう。
最近、娘が寝がえりができるようになり、うつ伏せになって周囲を興味深そうに眺めたり、近くのものに手を伸ばしてつかんで遊んだりしている。
キングヌーのPVを眺める昼下がりの娘。
奥さんお手製のコーヒーゼリー。甘さ控えめだがアイスを乗せて食うと美味い。
夕方に奥さんと娘が昼寝してしまったので、僕はひとりでAmazonPrimeで映画を観る。今回はずっと観たいと思っていた『ムーンライト』を鑑賞。
マイアミの黒人街で育ったシャロンという少年の少年期、思春期、青年期を描き、ドラッグ、貧困、性的マイノリティなどのバックグラウンドを持った少年の心の葛藤を静かにリアルに描いた作品である。
鑑賞しながら感じていたのだが、この作品は日本のいわゆる『純文学』なのだ。
ドラマチックな事件は起こらず、エンタメ性も無い。しかし、少年シャロンが母親から育児放棄気味の中、ドラッグの売人フアンに救いを与えられて少しずつ心を開いていく様子が丁寧に描写されている。観客はその少年の不安定な感情の揺らぎをただ眺めるしかできず、一緒に不安を感じ、一緒に救いを感じ、淡々と時間が過ぎていく。
そこから時間が一気に進み、10代の思春期では友情と性の問題が出てくる。母親はドラッグ中毒で売春婦として生活しており、親子の関係は破綻している。しかも、心の支えとなっていたドラッグの売人フアンは亡くなっており、学校ではいじめにあっている。
青年期ではいきなりマッチョなドラッグの売人になっているシャロン。しかし、中味は不安定な弱い少年シャロンのままである。
主人公の外見がいかに変化しようと、どんなバックグラウンドがあろうと、人間的な弱さは変わらず、その弱さからくる不安定な葛藤を丁寧に描写していく、それがいわゆる『純文学』と一緒だなと思ったのだ。観客はその不安定な葛藤を追体験しながら、ほんの少しの救いのようなものを得て心を動かされるのだ。
僕もこの作品を観ていて、ずっと不安でドキドキした少年のような感情を追体験していた。こういう映画体験もあるのだな。面白かった!とは言えないが、じわじわと心に残る作品であった。
さて、じわじわした不安定な気分を抱えたままばんめし。純文学的な丁寧な和食を食べようかとお惣菜を作る。
スーパーにタケノコが売っていたので朝からあく抜きとして煮ておいた。ワカメの酢の物と、甘辛の味噌和えにする。ちょっとだけあくが残ってしまったが、春っぽくて美味い。
上段はイカゲソの煮物と、春菊の胡麻和え。こちらも春を感じる。
野菜多めの健康的な食卓となった。観た映画がどの程度料理に影響しているのかは不明だが、なんとなく丁寧に季節の味を楽しもうと思ったそんな食卓である。